この原稿は、大三沢高等学校同窓会誌「やませ」の創刊号(昭和35年)に当たり、初代校長の故水戸秀郎氏が寄稿したものです。
校歌作成の経緯や開校後の校庭整備の状況などがよくわかる貴重な資料なので、ここに紹介させていただきます。
なお、現在読むうえで分かりづらいところは、付記させていただき、カッコ書きさせていただきました。
あの頃 その頃
水 戸 秀 郎
まことに月並みな言葉だが、泌々と歳月の流れの速さに感じさせられるだけです。
過日には第4回生の2百名近い卒業生が学窓から羽搏(ばた)っていったし校舎のいらかにも、もう歴史の影がウッスラと差しこめているようです。
創設のあの頃、その頃、盡きない想出話は数々ありますが、その二つ三つを拾って創刊号のお祝いに代えさせていただきましょう。
第1話 校歌のこと
校歌は皆さんも知っているように今の七(戸)高校(校)長、当時の教頭の田村文雄先生が1年有余、校を練りに練って仕上げられた誠に立派な歌詞です。高等学校の校歌ではあり、半永久的な生命と学校教育では最も重要な位置を占めるものですから、当時のPTAの役員の方や先生方の中でも所謂(いわゆる)全国的な有名人に依頼してはと言う意見も少なくありませんでしたが、先生の詞想と、創立からの学校の使命と理想に徹せられた田村先生こそ正に最適の人だとの議に落付いて、あの作詞が出来上がったのでした。
作曲は始めから呉泰次郎先生にお願いすることにしていました。呉先生は私の中学の古い同窓ですが永らく東京芸大の助教授をされ、戦前、紀元2600年(西暦1940年)にはドイツのワインガルトナー賞をとられて現在も第一交響楽団の常任指揮者・朝日ジュ二ヤー音楽教室などを主宰されて日本の斯界の第一人者です。
作曲を依頼して程なく、私は機会を得て下北沢の先生のスタジオをお訪ねしました。その時の先生の話に・・・自分は此(こ)の道に入ってから今日迄、実に幼稚園から大学までの2千有余の校歌作曲をして来たが、本当に心から感動して歌詞にメロディをつけたのは法政大学の校歌と、この大三沢高校の校歌だけですよ。日本語の美しさ、学校の持つ崇高な魂の輝きを本当にこの歌に感じて快心の作曲構想が何の苦しみもなくスラスラと出ました。恐らくこんな立派な校歌はそうザラにはないと思いますネ・・・と言われました。
力強い男声の一節から・美しい女声の二節に入り男女混声の三節をその後、何回となく聞いて、私は泄々、その作曲家の言葉の真実なことにうなづいています。
ラジオから流れる六大学野球に歌われる法政大学の校歌は、もう全国的にも口ずさまれるでしょう。
これと同格と言われる大三沢高校の校歌は・・・と思うとき、私は卒業生の諸君が、どんなチャンスでもモット、モット愛誦して欲しいものだと衷心思わないではいられないのです。
第2話 野球部とバレー部のこと
女子の制服の揃う6月に入ると生れ立ての学校もやや高等学校らしい体裁ができてくるのですが、生徒会活動の中の部活動の重点をどこに置くかと言うことが問題になってきます。60名ずつの男女の生徒でも欲求は既成校並みであり、定時制との振れ合いもあってなかなか厄介な問題ですが、如何にも土地柄に相応しく男子は野球と柔道・女子はバレーとお花お茶が最初のスタートを切りました。
バレー部は当時の大三沢一中が斯界の名門でしたからなかなか元気で大学新卒早々の田高先生の監督で・安定所の職員であった名コーチ阿保さんが熱心に指導に当たられたのですが、夏休みを返上して荒野原にコートを部員自身が作り上げて営々の練習振りには全く感激ものでありました。津軽衆で熱血漢の阿保さんのコーチ振りは女子生徒へのコーチとしては唯々驚くべきスパルタ式振りで、黄昏れて顔の見分けのつかないコートに部員が固まっては叱られて涙をこぼして居る情景を何度も見せられたことでした。
野球部は全くの烏合の衆から発足しましたが、今の三沢小学校の六角先生のコーチ振りも阿保さんのそれに一廻りも二廻りも輪をかけた誠に物凄いものでありました。真暗に暮れた一中グランドに走り廻る選手を一人一人怒鳴って呼びつけてはバットでよく尻をブン殴っては気合を入れる練習振りで、野球部養成に知識のない私は、肝を冷やしたり、感心したりしたものです。
夏休み当初朝日野球の県予選が弘前球場で行われて、この出場が生徒会の公式対外試合の第一頁になりました。
純白づくめのユニホームと、一年生だけの豆チームの人気はなかなかで清潔でキビキビした試合振りだと、新聞評も極めてよかったことは愉快なことでした。3回か4回に下田君が素晴らしいランニングホーマーをカッ飛ばして私も一時はこれはヒョッとすると勝てるぞと思ったりもしたのでした。
こうした特別な部活動への比重のかけ方は決して結構なこととはいえませんが、当時の人数、生徒会の規模では又止むを得なかったことであります。ただ両部とも生徒会クラブ活動の中で益々斯界の名門としての名に重きを加えつつある現実を見ては甚だ愉快なもの禁じ得ません。
第3話 整地のこと
グランドを始め校舎の周囲は始めの年は殆ど手を附ける方策も余地もなく唯校舎の前後を120名の生徒が間断なく整地にかり出されていましたが、第2年目の夏休みに軍の情報参謀のカックス少佐の厚意で10日間を要して機動力で今のグランドが出来上がりました。土のやり場がないために三方に土堤を自然に形成して仕舞いましたが、この土があの自然松を枯らさせて仕舞うのではないかと、大変心配したものです。こうして最大難関のグランドの始末はつきましたが、しかし、校地の体裁は3カ年生徒や職員の手で造られたもので、極言するなら1回生は純土木、2回生は準土木、3回生は臨時土木と言ってもよい汗と愛校心の結晶があの校舎にしみているように私には思われます。
抜いても抜いてもはっている熊笹の根を山と積んでは燃やした煙が今も眼底にホーフツとして、清らかにも懐かしい想出です。
結 び
題名の通り、そこはかとない想出話の駄文で、同窓会創刊紙を汚したことにもなりました。しかし私が敢えてこうしたのは何時迄も同窓生の無形有形のモノが現在の学校や先生方や在校生に厳然と厳粛につながっていると言うことなのです。
それは丁度、親子や兄妹のキヅナがどのようにしても切ることが出来ないように諸君の現在からも、過去からも未来からも大三沢高校を切り離すことは出来ないのです。
時々は一中版の金ボタンや、ジャムパースカートで颯爽と上り下りした往時を思い浮かべて、こんな私の言葉をも静かに哲学してみて下さい。
ではお互いにこれからも元気で自分自身に頑張りましょう。